マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』に強い影響を受けた2019年の『ジョーカー』。
孤独な男アーサーが社会から虐げられた末に「悪のカリスマ」へと変貌する姿は、世界中で熱狂を巻き起こしました。
しかし、続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』でトッド・フィリップス監督が提示したのは、その熱狂を冷水で冷ますような、あまりに現実的な幕引きでした。
そこには、映画という虚構をどのように終わらせるかという、作り手の切実な倫理観が見え隠れします。

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に納得がいってない人は必見です。

スコセッシの作品やキアロスタミの作品と比べながら、どうして『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』がああいう作品になったのか解説していくよ~。
1. 狂気の血統:トラヴィスの暴力とパプキンの承認欲求
アーサー・フレックというキャラクターは、スコセッシ作品が生んだ二人のアンチヒーローのハイブリッドです。
一人は、孤独を暴力で塗りつぶそうとした『タクシードライバー』のトラヴィス。
そしてもう一人は、コメディアンとしての成功を夢見て誘拐事件を起こす『キング・オブ・コメディ』のルパート・パプキンです。

パプキンは劇中、犯罪の末に全米のスターに上り詰めるという、あまりにトントン拍子な「ハッピーエンド」を迎えますが、これもトラヴィスの結末と同様、パプキンの脳内が見せた妄想ではないかという説が根強く囁かれてきました。
アーサーが憧れの司会者マレーと対峙する構図は、パプキンがかつてデ・ニーロ演じる司会者を追い詰めた姿の裏返しです。
しかし、先人たちが「妄想の余地」を残して虚構の勝利を描いたのに対し、アーサーの物語はより残酷な現実へと引きずり下ろされていきます。

2. 明示された妄想の装置:構造的な「親切さ」の意味
『ジョーカー』が先人たちと決定的に異なるのは、その構造の親切さにあります。
本作では、アーサーが隣人の女性と恋に落ちたエピソードが、すべて彼の妄想であったことが劇中で明確に明かされます。

これは、過去の名作たちが残してきた「妄想か現実か」という議論に対する、現代的な回答と言えるでしょう。
トラヴィスの結末が曖昧なまま毒として観客の心に残るのに対し、アーサーの救いはすべて脳内の出来事であると断定されます。トッド・フィリップス監督は、彼が手にしたのは救済ではなく、ただの孤独な凶行であったことを観客に突きつけ、逃げ道を塞ぎました。
3. 『ジョーカー2』による断罪:偶像を脱ぎ捨てたアーサーの末路
一作目が格差社会への鬱屈したエネルギーを代弁する「勧悪懲善」として熱狂を呼んだのに対し、二作目はその熱狂を徹底的に断罪します。
法廷劇として描かれた続編において、アーサーの行いは「カリスマの革命」ではなく、ただの「惨めな犯罪」として徹底的に解剖されます。
レディ・ガガ演じるリーが愛したのは、アーサーという一人の人間ではなく、彼が作り上げた「ジョーカー」という虚像でした。アーサーが「ジョーカーなんていない、僕はただのアーサーだ」と告白した瞬間、彼女も、そして映画に熱狂した観客の一部さえも彼に失望し、背を向けます。
監督はここで、観客が抱いた悪への共感を無慈悲に奪い去り、彼を「ただの男」として散らせたのです。

4. 考察:『桜桃の味』に見る「現実への帰り方」の対比
ここで、アッバス・キアロスタミ監督の『桜桃の味』のラストを補助線に引いてみましょう。死を決意した主人公の物語が突如としてメイキング映像で中断されるあの結末は、「これは作り物ですよ」と種明かしをすることで、観客を現実の生の美しさへと帰還させる救済のメタフィクションでした。キアロスタミ監督は、映画の登場人物に対して観客が強く感情移入してしまうことをよくないことだと思っていたそうです。
トッド・フィリップス監督もまた、『ジョーカー』2部作を通じて一種の「出口」を提示しました。しかし、キアロスタミが「生」を肯定するために虚構を破ったのに対し、フィリップスは「安易なカリスマへの熱狂」を断ち切るために虚構を解体しました。どちらも境界線を引くことで観客を現実へ戻そうとしていますが、その手法は、一方は詩的な抱擁であり、もう一方は冷徹な決別であったと言えます。


『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に見られるミュージカル調の演出も、「これは映画である」と滑稽に伝えるための方法だったのでしょう。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
トッド・フィリップス監督が2作を通じて伝えたかったのは、ジョーカーをヒーロー視する観客への強烈な牽制だったのではないでしょうか。アーサーを最後にあのような形で退場させたのは、トラヴィスやパプキンが英雄に祭り上げられてしまった危うい結末に対し、現代の作り手として「これは単なる映画であり、現実はもっと残酷で孤独なものである」という責任感を示した結果なのかもしれません。
トラヴィスがバックミラー越しに現実に戻り、キアロスタミがビデオカメラで日常を映し出したように、アーサーもまた、偶像という仮面を剥ぎ取られ、一人の人間として現実の中でその生涯を閉じたのです。

映画の楽しみ方は人それぞれですが、登場人物への過剰な共感は避けた方がいいのかもしれません。

でも、それだけのめり込んじゃうキャラクターを作り上げられるってのは、やっぱりすごいことだよね!
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