カルト的な人気を誇り、日本では30年の時を経て劇場初公開された『悪い子バビー』(原題:Bad Boy Bubby)。
強烈な設定の中に、人間の尊厳や宗教への深い問いかけが込められた傑作です。

今回は、観る者の倫理観を激しく揺さぶる本作の謎を紐解きながら、その深いメッセージ性を解説します。

まずは作品概要から!
作品概要:30年の時を経て日本を震撼させた奇跡の映画
本作は1993年に制作され、ヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞するなど高い評価を得ました。しかし、そのあまりにも過激でセンセーショナルな内容から、日本では長らく劇場公開が見送られていました。
そんな幻の傑作が、なんと2023年に日本で初めて劇場で正式公開されたのです。制作から30年という長い年月を経てもなお、その鮮烈さと現代的なテーマ性は一切色褪せておらず、多くの映画ファンに衝撃を与えました。

着想の背景:元ネタや実際の事件はあるのか?
監禁されていた子供が社会に出るという設定から、実際の事件を連想される方も多いかもしれません。
しかし、本作に直接的な特定のモデルや、元ネタとなった事件はありません。ロルフ・デ・ヒーア監督の完全なオリジナル脚本です。
ただし、監督は人間が「言葉」や「社会性」をどのように獲得していくかという、言語学や心理学的なアプローチに関心を持っていました。特定の事件をベースにしていないからこそ、本作は犯罪ドキュメンタリー風の映画に留まらず、寓話的で普遍的な「人間讃歌」へと昇華されています。
信仰と文化への疑問:両親の身勝手さと宗教の矛盾
物語の序盤、バビーを監禁し虐待し続けた母親と、突然戻ってきて片手間に牧師を気取る父親が登場します。どんな事情があれ、彼ら両親の行動は最低極まりないものです。しかし、この両親こそが「歪んだ文化や信仰」のメタファーになっています。
文化を何も知らずに育ったバビーは、出会う人々の言葉や行動をそのままコピーして生き延びていきます。そんな彼が、父親や若い教徒など「信仰に係わる人」と関わることで、私たちは奇妙な違和感を覚えることになります。
神を語る者が最も身勝手で、純粋なバビーを排斥しようとする。常識を知らないバビーがどの店に入っても追い返される中、彼を拒絶せずに受け入れたのは、家族やグループといった「群れ」をなさずに一人で行動している女性たちや、既成概念を壊すロックバンドでした。
バビーが最初に出会う若い女性は、一見すると敬虔なキリスト教徒ですが、出会ったその夜にバビーと性交へと至ります。彼女の行動からは、表面的な信仰の裏にある、人間としての本能的な欲求が透けて見えます。また、次に出会う普通の中年女性も、組織や集団のルールに縛られていないからこそ、バビーを先入観なく受け入れることができました。常識や文化、あるいは宗教といった大きな傘に守られた人間よりも、個として本能的に生きる人々の方が、結果として他者を愛せるという皮肉がここに効いています。
刑務所のシーンが意味するもの:伝統の押し付けと先住民への差別
作中、刑務所のシーンで唐突に登場する、スコットランドの伝統衣装「キルト」をまとった人々による笛や太鼓(バグパイプ・バンド)の行進や、先住民が差別的な扱いを受ける描写は、オーストラリアという国家が抱える「歴史の闇」と「規律への皮肉」を表現しています。
- キルトをまとった不条理な行進 オーストラリアの宗主国であるイギリスの、形骸化した「伝統」や「お仕着せの規律」の象徴です。刑務所という閉鎖空間に響く伝統音楽は極めて不条理で滑稽ですが、個人の尊厳を無視して異文化のルールを均一に植え付けようとする、権力システムの横暴を風刺しています。
- 先住民への差別的扱い オーストラリアにおける白人入植者による先住民(アボリジニ)への迫害の歴史を暗に批判しています。白人の持ち込んだ「法律」や「宗教」、「伝統」という名の正義が、土着の人々に対していかに排他的で残酷であるかを、バビーの視点を通して浮き彫りにしています。

本作は、端々で人間が文化的に生きてきたからこそ生まれた愚かしさのようなものを伝えています。
「神を忘れろ」:教会でのオルガン弾きのセリフに込められたメッセージ
本作が宗教に対する強いメッセージ性を持っていることを確信させるのが、教会でオルガンを弾く男がバビーに放つ強烈なセリフです。
人間は原子で構成されているに過ぎず、原子が構造を変えるだけで我々は死なない
神はいない、いるはずがない、神がいるだなんてバカげている
いいかげんな我々人間のことなら話も分かるが、神が地球を創造した以上に人間は人生の調和を生んだ
測定し、計画する、素敵な音楽も作曲する
我々は自分の存在を創造するんだ
何百万もの子どもたちを虐殺する神にひざまずくなんて
罪もないのに苦しませ餓死へと追い詰め虐待する 拷問にかけ見捨てる
そんな神を侮辱してはいけないだなんて
神なんて忘れろ そうするのが君の使命だ
侮辱して当然だ
くたばっちまえ! 私に罰を下してみろこの暴君が! 架空のインチキ野郎め!
神を忘れることが全人類に与えられた使命だ
未来のためにも
そうすれば自分に対する責任感が生まれる
この言葉通り、映画の後半ではバンドメンバーによって、同じ神を信仰しているはずなのに血を流して争い合う異教徒たち(イスラム教、ユダヤ教、キリスト教)の愚かしさも語られます。
本作は、実体のない神にすがり、その名の下に他者を排除する宗教の本質を激しく批判しています。神を捨てることではじめて、人間は自分の人生に責任を持ち、本当の意味で他者と向き合えるのだと訴えかけているのです。

強烈です。信仰心が深い人が観るとどう思うんでしょう。気になります。
本能か信仰か。「仮面」を被ることで獲得した、バビーなりの「人間らしさ」
本作は観客に対して、一つの大きな問いを突きつけています。「人間らしく生きる」とは、社会のルールに則って文化的に生きることなのか、それとも、自分の感じたままに本能のまま行動することなのか。
宗教に強く物申す本作は、最終的に神を捨て、本能的に生きても何とかなるという圧倒的な「人間讃歌」を描いています。自分が美しいと思うものを美しいとはっきり言い、愛をストレートに表現できる強さがバビーにはありました。
しかしその一方で、彼が最終的に行き着いた生存戦略は、非常に示唆に富んでいます。バビーは社会の中で生きていくために、かつて自分を脅かした存在であり、社会的な記号でもある「パパ」という人格(仮面)を被ることを覚えました。そして、最愛の人であるエンジェルの前でだけは、偽りのない「バビー」として正直に生きることを選択したのです。
社会に適応するために仮面を被りながらも、本能の美しさと愛を忘れない。この二面性を受け入れることこそが、彼が過酷な世界で見つけ出した、生き物としての、そして人間としてのたくましさなのかもしれません。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
神という絶対的な存在を捨て去り、自分の人生の責任を自分で背負ったバビー。
彼が最後に手に入れたささやかな調和は、混沌とした現代社会を生きる私たちにとっても、進むべき道を照らす一筋の光のように感じられます。

序盤こそきついですが、外に出てからもめちゃくちゃなのにどこか清涼感すら覚える。それは人間讃歌が込められているからだと思うんです。めちゃくちゃ面白いですよ。

色んな人に観てみてほしいよね。
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