スタンリー・キューブリックは、20世紀を代表する映画監督の一人として、その卓越したビジョンと完璧主義で知られています。
アメリカ人である彼がキャリアの大部分をイギリスで過ごしたことは、しばしば語られる興味深い事実です。

今回の記事では、なぜ彼がハリウッドを離れ、イギリスに自身の映画製作の拠点を見出したのか、その具体的な経緯を紐解きます。

なんでなんだろ?何が不満だったのかな?
写真家から映画監督へ:キャリアの出発点
キューブリックは1928年7月26日、ニューヨークに生まれました。少年時代にカメラと出会い、その才能は早くから開花します。17歳で写真雑誌『ルック』に見習いカメラマンとして採用された彼は、そこで培った視覚的センスを後に映画製作へと昇華させていきます。
自身のフォト・ストーリーを元に製作した短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』(1951年)の成功をきっかけに、彼は写真の世界から映画監督へと転身。
映画製作者のジェームズ・B・ハリスと「ハリス=キューブリック・プロダクション」を設立し、本格的に劇映画の製作に乗り出しました。
なぜハリウッドを離れ、イギリスを拠点にしたのか
キューブリックがアメリカからイギリスへ拠点を移す決断に至った背景には、ハリウッドの製作体制に対する強い不満がありました。
彼がイギリスに活動の場を求めた主な理由は以下の通りです。
- 芸術的自由の追求: ハリウッドのスタジオシステムでは、監督が自分のビジョンを完全に実現することが難しい場合が多く、商業的な成功や検閲によって妥協を強いられることも少なくありませんでした。徹底した完璧主義者であるキューブリックは、自身のクリエイティブなコントロールを何よりも重視しました。
- 検閲からの解放: 彼の作品には、性的なテーマや暴力的な描写など、当時のアメリカでは厳しい検閲の対象となるものが多く含まれていました。イギリスでは、アメリカに比べて検閲が比較的緩やかだったため、表現の自由をより確保しやすいと考えられました。
- プライバシーと作業環境の確保: イギリスでは自宅を仕事場とし、脚本執筆、取材、編集、そして撮影の細部に至るまで、すべてを自身で管理できる環境を築きました。これにより、外部からの干渉を最小限に抑え、自身のペースで創作活動に没頭することができました。
ハリウッドへの幻滅:『スパルタカス』での決定的な経験
キューブリックのハリウッドへの幻滅を決定づけたのは、彼の監督作として高い評価を受けた『突撃』(1957年)と、続く超大作『スパルタカス』(1960年)での経験です。
『突撃』では、反戦という挑戦的なテーマゆえに製作資金の調達や配給に苦労し、早くもスタジオとの摩擦を経験します。しかし、特に『スパルタカス』での経験が、彼のイギリス移住を決意させる決定的な要因となりました。
この作品は、アンソニー・マン監督の降板を受けてキューブリックが引き継いだものでしたが、彼はここでハリウッドのメジャースタジオシステムの現実を痛感することになります。最大の不満点は、監督である彼に最終的なカット権がなかったことです。ハリウッドでは、プロデューサーやスタジオ幹部が作品の最終的な編集権を持つことが一般的であり、キューブリックの意図とは異なる形で作品が完成させられる部分がありました。完璧主義者である彼にとって、自身のビジョンが妥協を強いられることは耐え難い経験でした。この『スパルタカス』での経験が、彼の芸術的自由を確保するためにはハリウッドの主流から距離を置く必要があるという確信に繋がったのです。
新天地イギリスでの創作活動と「完璧主義」の追求
ハリウッドでの苦い経験を経て、スタンリー・キューブリックは1961年にイギリスへ移住しました。そして、この新天地で製作された最初の作品が、性的テーマゆえにアメリカでの製作が難航した『ロリータ』(1962年)です。
イギリスでは、当時のアメリカと比較して検閲が比較的緩やかであり、より自由な表現が可能でした。キューブリックは、ここで自身の映画製作スタイルを確立します。彼は自宅を拠点とし、脚本執筆から取材、編集、そして撮影の細部に至るまで、徹底的に自身の管理下に置きました。これは、彼が「完璧主義者」として知られる所以であり、外部からの干渉を最小限に抑え、自身の芸術的ビジョンを完全に追求するための戦略でした。
イギリスに拠点を移して以降、キューブリックは滅多にメディアに登場せず、映画祭や授賞式にもほとんど出席しませんでした。これは、彼がプライバシーを重視し、世間の注目よりも自身の創作活動に集中することを望んだためです。ハリウッドのメジャースタジオからの資金援助を受けつつも、クリエイティブなコントロールを維持できるこの独自の体制は、彼が『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』、『シャイニング』といった、後世に語り継がれる革新的な作品群を生み出す土壌となりました。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
キューブリックのイギリス移住は、単なる物理的な移動ではなく、彼の映画製作に対する哲学と、それを実現するための戦略的な選択でした。
この決断がなければ、彼の残した偉大な作品群のいくつかは、異なる形になっていたかもしれません。

アメリカで撮り続けていたらどうなっていたのか。これも気になるところですね。

『シャイニング』は生まれてなかったかもしれないね…
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