ロッテントマトをはじめ、海外のホラー映画ランキングで必ずと言っていいほど上位に食い込んでくる1964年のモノクロ映画があります。それが、新藤兼人監督の『鬼婆』です。
一見すると古めかしい怪談話のようでありながら、今なお世界中の映画ファンを魅了し、あの『エクソシスト』の監督にまで影響を与えた本作。実際に観てみると、そこにあったのは恐怖だけでなく、スクリーンから溢れんばかりの「人間のドロドロとした生々しい生命力」でした。

今回は、観る者の本能を揺さぶる本作の魅力を、深く掘り下げて紹介します!

どうしてこれまで海外での評価が高いのかもしっかり分析しますよ。
作品概要と監督について
- 公開年: 1964年
- 監督・脚本: 新藤兼人
- キャスト: 乙羽信子(息子の母)、吉村実子(息子の嫁)、佐藤慶(八)
- あらすじ: 南北朝時代の戦乱期。淀川沿いの見渡す限りの葦(あし)の原で暮らす二人の女性(姑と嫁)。彼女たちは、戦場から逃げ延びてきた落武者を襲って殺し、その武具を剥ぎ取って商人に売り飛ばすことで、かろうじてその日を生き延びていました。そんなある日、戦地から隣人の男・八が帰還したことで、二人の奇妙な共生関係に狂いが生じ始めます。
映画界の怪物・新藤兼人監督の執念
本作のメガホンをとった新藤兼人監督は、日本映画界においてまさに怪物的な存在です。生涯で監督した作品は約50本、手がけた脚本にいたっては約250本という、世界の映画史を見渡してもトップクラスの超人的な記録を残しています。しかも、大手の映画会社から独立した組織(独立プロ)でこれほどの本数を作り続けたという事実は、驚異的と言うほかありません。
その映画への凄まじい情熱は生涯衰えることがなく、なんと99歳の時に『一枚のハガキ』(2011年公開)を監督・脚本。ご自身の戦争体験をベースに「これが最後の作品、遺言だ」という凄まじい覚悟で人生の集大成を完成させ、100歳で亡くなられました。そんな新藤監督が一貫して描き続けた「極限状態を生きる人間の生々しさ」や「底辺の生命力」が、この『鬼婆』にもこれでもかと注ぎ込まれています。
解説・感想
太古から現代へと通じる「深く暗い穴」と、映画的な沈黙
本作を象徴するのが、葦の原にぽっかりと口を開けた「深く暗い穴」です。落武者の死体を投げ込むあの穴。底がまるで見えないその闇は、太古の昔から人間の底に眠る欲望や、現代まで地続きで繋がっている「人間の業(ごう)」そのものを具現化しているように思えてなりません。
さらに驚かされるのは、冒頭から10分以上もの間、セリフが一切ないことです。風に揺れる葦の音と、息を潜める人間の気配だけ。この映画的な沈黙があるからこそ、観客は一気に言葉のない闇の奥へと引きずり込まれ、登場人物たちの不安や緊迫感を肌で体感させられます。
情欲、嫉妬、不安――むき出しの「獣」としての人間
物語を突き動かすのは、人間の情欲と嫉妬、命令、そして置いていかれることへの不安です。 戦地から帰った八と、若い嫁が密会を重ねるようになり、一人取り残される恐怖に駆られる姑。ここで秀逸なのが、中年を迎えた姑の側にも、まだしっかりと「色欲」が残っているという描写です。若い二人への嫉妬だけでなく、自分自身の満たされない渇きが混ざり合う様子が実にリアルで、同時に言葉にできない切なさを醸し出しています。
一方で、理性を忘れ、ただ本能のままに走って八との逢引に向かう若い嫁の姿は、エネルギッシュそのもの。その躍動感は、人間もまた自然の一部であり、抗えない「獣」なのだと強く突きつけてきます。
鬼をも超える、抑えられない性の衝動と悲痛な結末
嫁の夜這いを止めるため、姑は落武者から剥ぎ取った不気味な「鬼の面」を被って脅かそうとします。しかし、恐怖の象徴であるはずの「鬼」を目にしてもなお、嫁の性の衝動、生への執着は抑えきれません。理性を超えた人間のエネルギーの凄まじさが、このシーンに凝縮されています。
やがて訪れる、面が顔から剥がれなくなる展開は、古典的であり予想ができる落ちではあります。しかし、だからこそストレートに恐ろしい。肉と面が一体化してしまい、夜の闇に響き渡る「痛いよ、痛いよ」というあの演技は、まさに絶品の一言に尽きます。自業自得でありながらも、あまりの哀れさに胸を締め付けられる名シーンです。
考察:なぜ『鬼婆』は海外でここまで高く評価されるのか?
日本人にとって、この「面が剥がれなくなる」という展開は民話などで馴染み深いものですが、海外の観客にとっては非常に新鮮に映ります。小林正樹監督の『怪談』が世界的に絶賛されたことからも分かるように、予想の付かない展開に加えて、日本の怪談が持つ「因果応報」や「人間の業」といった戒めのエッセンスは、異文化の目には強烈なインパクトとして乗っかってくるのです。
さらに、本作の「魅せ方」がその異国情緒をより荘厳で力強いものにしています。独特な音響設計や、葦の原という原風景が持つ圧倒的な空気感は、世界標準の映画美として通用するクオリティです。
そしてもう一つ、ホラー映画における「日米の構造の違い」も見逃せません。日本の近代ホラー(Jホラー)の多くが「なぜ呪いが起きたのか」という怪異の原因究明に重きを置くのに対し、海外ホラーは怪異そのものを異質なものとして背景に退け、むしろ「登場人物のドラマや心理の変化」にスポットを当てる傾向があります。 この視点で『鬼婆』を捉え直すと、作中で描かれるのは怪異そのものの謎ではなく、性の衝動、嫉妬、焦燥、渇きといった「人間らしさの極限」です。怪異をダシにしながら、人間の内面をこれでもかとドロドロに描き切った本作は、まさに欧米の映画ファンが好むホラーの理想形だったと言えるのではないでしょうか。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
『鬼婆』は、「お化けが出てきて怖い」というジャンル映画の枠には収まらない作品でした。 生きるために他者を殺し、飢えをしのぎ、性(さが)に溺れていく。新藤兼人監督が描き出したのは、綺麗事のいっさい通用しない極限状態における、人間の剥き出しのポートレートです。
白黒の画面だからこそ際立つ、光と闇の強烈なコントラスト。

その闇の中に、あなたは何を見るでしょうか。

未見の方はぜひ、この底なしの穴の恐怖を体験してみてね!
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