早川千絵監督の最新作『ルノワール』。
冒頭の「夢でよかったと思いました」という一文が、本作のすべてを規定しています。
これから語られるのは、逃れようのない事実なのか、それとも、剥き出しの何かに触れてしまった少女が作り上げた幻想なのか。
私たちは、少女の瞳を介した映像の中で、その危うい足場を歩まされることになります。

鑑賞者の解釈に委ねられる場面が非常に多い作品です。大きく3つの視点で解説をしていこうと思います。

ネタバレ記事だから、鑑賞後に「どういうこと?」ってなってる人はぜひ読んでみてね。
逃れられない事象の連鎖として:日常を侵食する「不穏」
真っ直ぐにこの物語を追うならば、そこには昭和末期の空気に潜む、粘りつくような悪意の予感が横たわっています。
フキが手にする「泣いている映像を集めたビデオ」。
それを捨てた場所で声をかけてくる、少女愛的な嗜好を隠さない男の存在。
そして、マンションからの転落死。後半に登場する浪人生の、卑俗な下心。
これらがもし現実だとしたら、フキは父の死という喪失だけでなく、社会の底に淀む「語るにも恐ろしい記録」に直接的に関わってしまったことになります。
彼女が抱く罪悪感や、その死への関与の疑念。それらが少女の心に落とす影は、あまりに濃く、深いものです。

フキのような少女に性的な目的で近づく男たち。これらが少なからず事実であるならば、水風船のシーンやあのビデオが持つ意味は、ゾッとするものになってしまうわけです。
2. 視線が書き換える世界として:夢という名の「防衛」
一方で、劇中の出来事がすべてフキの「夢」である可能性を、本作は常に提示し続けています。
高学年という多感な時期。父の病、死への予感、自分に向けられる男たちの視線。
それら整理のつかない感情を、彼女は「超能力ブーム」や「戦慄のビデオ」といった当時の刺激的なモチーフに託して、脳内で編集したのではないでしょうか。
河原で腹水の溜まった父の手を離した時の、あの突き刺さるような切なさ。
それを覆い隠すように、競馬場のシーンでは父への純粋な親愛が描かれます。
あまりに過酷な現実を「夢」として解釈し、あるいは「幻想」でデコレーションしなければ、彼女の心は壊れてしまったのかもしれません。

今一つよく分からないシーンの数々は、フキの妄想が入っていると解釈するわけですね。世の中が、あの年ごろの少女にはあのように見えていると。
3. 『お引越し』との共鳴:火と船がもたらす「儀式」
本作は、相米慎二監督の『お引越し』を通過儀礼のモデルとして鮮やかに踏襲しています。
家庭の崩壊に直面し、子供時代という楽園を追われる少女。
その結末として描かれる「火と船の祭り」のシーンは、圧倒的なエネルギーで、それまでの禍々しい出来事をすべて浄化しようとするかのようです。
『お引越し』のレンコが求めた救いと同じように、フキもまた、圧倒的な火を前にして、自分が抱えてきた「夢か現実か分からない何か」と決別します。
それは、親の庇護を離れ、自分一人の足で「泥濘も、光も、すべてが同居する世界」へと踏み出していくための、苛烈な儀式だったといえるでしょう。

本作は、『お引越し』を観たか否かで、大きく見え方が変わります。もし観てない人は、名作でもありますのでぜひ一度ご鑑賞いただきたい。観たことあるけど忘れちゃった人はぜひ下の記事を。
作品に遺された断片を巡って
- 窓のリボンが示すもの 病室の窓に結ばれたリボン。それは、外界の不透明な悪意から父を守ろうとする境界線であると同時に、自分がどこに帰るべきかを見失わないための、フキなりの「祈り」の形でした。
- 死や戦争への憧憬 自分を囲む「言葉にしがたい不穏な現実」を、歴史的な不幸という既知の言葉で上書きしようとしていたフキ。それは、思春期の少女が持つ、残酷なまでの背伸びだったのかもしれません。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
「夢でよかった」と願うことで、ようやく生きていける現実がある。
早川監督は、ルノワールの絵画のような光で世界を包み込みながら、少女が目撃したその一瞬の「目覚め」を、残酷なまでに美しく描き出していました。

しかしながら、この監督の作品ですから、エグい要素が端々にあるのだろうと、私は思います。

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