ドライヤー亡き後、映画に奇跡は存在しない
映画『瞳をとじて』をTOHOシネマズで鑑賞しました。
監督は『ミツバチのささやき』のビクトル・エリセ。
実に31年ぶりとなる、待望の新作が、カンヌ国際映画祭にて上映され、満を持して日本でも公開されたのです。
『ミツバチのささやき』は、アナちゃんが可愛い映画だね。
スペイン国民に勇気を与えた素晴らしい作品だよ。
最新作もまた、『ミツバチのささやき』のような、素晴らしい作品でした。
今回の記事では、『瞳をとじて』の解説をお届けします。
あらすじ
映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオ・アレナスが失踪した。当時、警察は近くの崖に靴が揃えられていたことから投身自殺だと断定するも、結局遺体は上がってこなかった。それから22年、元映画監督でありフリオの親友でもあったミゲルはかつての人気俳優失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。取材協力するミゲルだったが次第にフリオと過ごした青春時代を、そして自らの半生を追想していく。そして番組終了後、一通の思わぬ情報が寄せられた。
「海辺の施設でフリオによく似た男を知っている」
https://gaga.ne.jp/close-your-eyes/about/
31年ぶりの新作
本作は、ビクトル・エリセ監督の31年ぶりとなる長編新作です。
ビクトル・エリセ監督の長編デビューであり代表作でもある『ミツバチのささやき』は、今なおリバイバル上映されるほど、大変人気の高い作品なので、たまらないものがありますね。
私も『ミツバチのささやき』を午前十時の映画祭で昨年初めて観て、かなり感動しました。
ちなみに、ビクトル・エリセ監督の前作は1992年の『マルメロの陽光』になります。
また、本作で見逃せないのが、『ミツバチのささやき』で主人公アナを演じたアナ・トレントが50年ぶりに同じく“アナ”の名前を持つ女性を演じているという点です。
これはもう『ミツバチのささやき』ファンにはたまらないものがありますね!
ビクトル・エリセが本作にこめた想い
『ミツバチのささやき』は、実はかなり難解な映画です。
物語の表面だけ観ても、作品の本質がわからないんですよ。
当時のスペインの社会情勢を頭に入れつつ、様々な背景を汲み取りながら観て、ようやく感動が大きくなるような作りになっています。
スペイン国民ならば、ある程度はわかるかもしれませんが…。
『ミツバチのささやき』に関しては、詳しくこちらにまとめているので、ぜひお読みください。
なので、本作も監督の意向をある程度汲み取ってから観た方が、映画の魅力は倍増するはずです。
以下に、公式サイトに掲載されているディレクターズノートを掲載します。
私はどんな映画を作りたいのか?そして、それはなぜか?
できるだけ短い言葉で正確に伝えるなら、答えはこうだ。
『私が書いた脚本から自然に花開いた、純粋で誠実な必然によって生まれる映画』
でも、この答えだけでは十分でないだろう。
だから、「瞳をとじて」が必然として伴う“何か”について説明したい。
そのためには概念の領域を掘り下げる必要があるが、私の意図を明確に宣言する。
もちろん、それはよき意図だ。
よき意図がよい結果を生むとは限らないと、分かっていたとしても。プロットの細部を積み重ねた果てに、この映画が観客に向かって描こうとする物語は、
密接に関わる2つのテーマ “アイデンティティと記憶”を巡って展開する。
かつて俳優だった男と、映画監督だった男。友人である二人の記憶。
過ぎゆく時の中で、一人は完全に記憶を失い、
自分が誰なのか、誰であったのか、分からなくなる。
もう一人は、過去を忘れようと決める。
だが、どんなに逃れようとしても、過去とその痛みは追ってくることに気づく。記憶は、テレビの映像としても保存される。
人間の経験を身近な形で記録したいという現代の衝動を、
何よりも象徴しているメディアだ。映画を撮る者の記憶は、ブリキ缶の棺に大切に保管されたフィルムだ。
映画館のスクリーンから遠く離れて、
映像視聴メディアによって社会における居場所を奪われた、
それぞれの物語の亡霊たち。
この文章を綴る者の記憶と同じように、長く刻まれる。これらの特性を内包した物語は、半分は経験したこと、半分は想像から生まれた。
私は映画の脚本を、自分で書いている。
だから、私が人生において最も関心を抱いていることが、
作品のテーマだと考えるのは自然なことだ。
言葉では伝えきれないが、一本の映画を観た経験が主役となる
詩的な芸術性に属するものだ。
そういう意味で、「瞳をとじて」では映画の2つのスタイルが交錯する。
1つは舞台と人物において幻想を創り出す手法による、クラシックなスタイル。
もう1つは現実によって満たされた、現代的なスタイルである。
別の言い方をするなら、2つのタイプの物語が存在する。
一方は、伝説がシェルターから現れて、
そうだった人生でなく、そうあるはずだった人生を描く物語。
そしてもう一方は、記憶も未来も不確かな世界でさまよいながら、
今まさに起こっている物語だ。ビクトル・エリセ
https://gaga.ne.jp/close-your-eyes/
中々、何を言っているかわかりませんね笑
私は今、映画を観た後にこの記事を執筆しているので、何となくわかりますので、少し解説を。
監督本人を描いている
まず、この映画を観て一番に感じるのが、ビクトル・エリセ監督本人を強く投影しているのだろうということです。
主人公のミゲルは映画監督で、かつ20年近く映画を撮影していません。
この時点でもう、監督ご本人と重ねざるを得ませんよね。
さらに、映画の中盤で、主人公のミゲルは服役していたことが明らかになります。
罪を犯したわけではなく、フランコ政権下における、文化統制の犠牲者としてです。
『ミツバチのささやき』の公開当時も、文化統制によって反政府的なメッセージが少しでもあるものを作ると、捕まったり自分や家族の身が危なくなったりする状況でした。
そんなギリギリの中、子ども向けのファンタジーという体でひっそりと社会的なメッセージを込めて作られたのが『ミツバチのささやき』なのです。
ビクトル・エリセ監督自身が投獄されたことはなさそうなのですが、2016年に亡くなった、友人であるイラン人監督アッバス・キアロスタミ監督や、同じくイラン人映画監督ジャファール・パナヒ監督に重ねている部分がありそうです。
今なお、イランでは映画や文化、芸術作品への厳しい文化統制が敷かれています。
映画の記憶
ディレクターズノートにある、記憶というキーワードについて意見を述べます。
記憶は、テレビの映像としても保存される。
人間の経験を身近な形で記録したいという現代の衝動を、
何よりも象徴しているメディアだ。映画を撮る者の記憶は、ブリキ缶の棺に大切に保管されたフィルムだ。
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映画館のスクリーンから遠く離れて、
映像視聴メディアによって社会における居場所を奪われた、
それぞれの物語の亡霊たち。
この文章を綴る者の記憶と同じように、長く刻まれる。
映画は、テレビやサブスクリプションなどのメディアによって、居場所を失う、つまり、どんどん人気が廃れていっているということを語っているのでしょう。
ビクトル・エリセ監督の作品も同様に。
『瞳をとじて』では、『ミツバチのささやき』で主人公アナを演じたアナ・トレントが再びアナという名前で出演しています。
しかも、『ミツバチのささやき』のラストと同じ「私は、アナ」というセリフを、同じように瞳をとじて語るんです。
まるで『ミツバチのささやき』を鑑賞した時の記憶を呼び覚ますかのように。
映画の記憶を、映画で呼び覚ましてほしい。
そんな監督の想いがこもったシーンなのです。
2つの映画
さらに加えてディレクターズノートの解説を。
「瞳をとじて」では映画の2つのスタイルが交錯する。
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1つは舞台と人物において幻想を創り出す手法による、クラシックなスタイル。
もう1つは現実によって満たされた、現代的なスタイルである。
別の言い方をするなら、2つのタイプの物語が存在する。
一方は、伝説がシェルターから現れて、
そうだった人生でなく、そうあるはずだった人生を描く物語。
そしてもう一方は、記憶も未来も不確かな世界でさまよいながら、
今まさに起こっている物語だ。
『瞳をとじて』は、主人公の映画監督が公開できなかった未完の作品『別れのまなざし』の冒頭シーンで幕を開けます。
最後もまた、『別れのまなざし』のエンディングシーンで幕を降ろします。
この『別れのまなざし』こそが舞台と人物において幻想を創り出す手法による、クラシックなスタイルを指すのです。
そして、現実によって満たされた、現代的なスタイルというのは、それ以外の『瞳をとじて』のストーリーになります。
『瞳をとじて』は、3時間近くに及ぶ大作ですが、ビクトル・エリセ監督の作品が2本詰まっているような作品とも言えるので、そう考えてみると決して長いとは言えませんね。
名作へのオマージュ
『瞳をとじて』は、映画をテーマにした映画です。
近年、『フェイブルマンズ』『バビロン』『エンドロールのつづき』など、映画作りを題材にした映画というのがたくさん公開されています。
これってきっと、コロナ禍で映画館が亡くなってしまうかもしれないという危機感から生まれた流れだと思うんです。
『瞳をとじて』もおそらく、ビクトル・エリセ監督がその危機感を覚えたからこそ、31年ぶりにメガホンを取ったからこそ生まれた作品なのではないでしょうか。
映画をテーマにしたものということもあって、先述の『ミツバチのささやき』のセルフオマージュ以外にも、いくつか映画のオマージュが観られました。
『リオ・ブラボー』で歌われる「ライフルと愛馬」という曲や、
リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』のパラパラ漫画、
そしてカール・テオドア・ドライヤーを名前を出したセリフからは名作『奇跡』を彷彿とさせます。
何よりやはり、「私はアナ」と言って瞳をとじるシーンは鳥肌が立つほど見事でした。
映画をたくさん観てきてよかったと思わせる大きな感動があります。
そして、『ミツバチのささやき』同様、映画館に人々が集まり、スクリーンを見上げるシーンが、『瞳をとじて』でも映し出されます。
ビクトル・エリセ監督の映画や映画館への感謝と、自身への作品への愛がたくさん詰まっているように感じられました。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます!
映画『瞳をとじて』の解説記事をお届けしました。
私たちの記憶にもフックする、見事な仕掛けです。
『ミツバチのささやき』を観てない人は絶対に観た方がいいよ!
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