世界で最も有名な劇作家ウィリアム・シェイクスピア。
彼の代表作『ハムレット』の誕生背景に、若くして亡くなった実在の息子「ハムネット」の存在があったことをご存知でしょうか。
マギー・オファーレルのベストセラー小説を、『ノマドランド』のクロエ・ジャオ監督が映画化した『ハムネット』。
鑑賞前に押さえておきたいポイントをまとめました。

アカデミー賞ノミネート作の中でも特に注目度の高い作品です。

ネタバレなしで解説していくよ~!
■ 作品概要
- 原作: マギー・オファーレル『ハムネット』(新潮クレスト・ブックス)
- 監督: クロエ・ジャオ
- 脚本: マギー・オファーレル、クロエ・ジャオ
- キャスト: ジェシー・バックリー、ポール・メスカル、エミリー・ワトソン 他
- あらすじ: 1580年代のイギリス。ラテン語教師の青年と、森を愛する神秘的な女性アグネスが恋に落ち、結婚する。やがて夫は劇作家として成功を収めるためロンドンへ向かうが、残された家族を悲劇が襲う。11歳の息子ハムネットの死。その絶望の淵から、いかにして世界で最も有名な戯曲『ハムレット』が生まれたのかを描く。
11歳で世を去った息子と、傑作『ハムレット』の繋がり
物語の核となるのは、1596年にわずか11歳で亡くなったシェイクスピアの息子・ハムネットです。当時、「Hamnet」と「Hamlet」はほぼ同一視されていました。なぜ、息子を亡くした数年後に、シェイクスピアはあの悲劇を書いたのか。
実は、1590年代のシェイクスピアは『真夏の夜の夢』や『ヴェニスの商人』といった、機知に富んだ喜劇や歴史劇で大衆を沸かせる、いわば「売れっ子のエンターテイナー」でした。しかし、息子の死という逃れられない絶望に直面したことで、彼の創作は劇的な変化を遂げます。1600年頃に書き上げられた『ハムレット』を境に、彼は『オセロー』『リア王』『マクベス』といった、人間の深淵や死の苦悩を掘り下げる「四大悲劇」の時代へと突き進んでいくのです。
この転換は、父が物語に込めた祈りであり、息子がその名と共に永遠の命を得るための儀式でもありました。あらかじめ戯曲『ハムレット』が「父の亡霊が登場し、生と死の狭間で葛藤する物語」であることを知っておくと、映画の中の親子関係がより重層的に響いてくるはずです。

文学が息を吹き込んだ「妻アグネス」という謎
本作で最も刺激的に描かれるのは、妻アグネス(ジェシー・バックリー)の造形です。実は、実在のアグネスについては、歴史的な記録がほとんど残っていません。後世では「年上の悪妻」といった不名誉なレッテルを貼られることもありましたが、それも憶測の域を出ないものです。
本作は、その「歴史の空白」を大胆なフィクションとして埋めています。彼女を森を愛し、手に触れるだけで人の本質や死の予兆さえ見通す「神秘的な力」を持つ女性として再構築しました。
ロンドンで成功していく夫に対し、故郷で命の生々しい営みと向き合い続けるアグネス。記録に残されなかった彼女の沈黙や痛みに、文学と映画が光を当て、一人の血の通った女性として描き出したことこそが本作の意義といえます。

今、この物語を「映画」で観るということ
現代は、AIによって生成された無機質で断片的な動画が溢れ、人々がそれに没頭する一方で、世界情勢は不安定さを増し、多くの人が実体のない不安を抱えています。
そんな今、なぜあえて物語創作の源流とも呼べる演劇の誕生秘話を、そしてマギー・オファーレルが緻密な文章で紡いだ傑作小説を、映画という媒体を通じて人々に伝えようとしているのでしょうか。
その意図は、本作が描く「個人の深い悲しみを、いかにして芸術や文学という普遍的な形へ昇華させるか」という、人間だけに許された尊い営みに集約されています。原作者が文章の力で伝えようとした魂の震えを、映画ならではの光、俳優の細やかな表情、そして音を伴って映像化することで、さらに多くの人へ届けたい。その情熱が、小説の中で文字として踊っていた感情を、今を生きる私たちの体温と重ね合わせます。
不安定な世界の中で、私たちが物語を必要とするのは、個人の痛みが他者の心と繋がるための「文学的な力」が、私たちを救い出してくれると信じているからです。本作『ハムネット』は、効率や利便性が優先される現代において、人間が人間であるための「魂の回復」を象徴する作品になるはずです。

今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
歴史の断片から、一人の少年の死と、それを見つめる母親の眼差しを鮮やかに描き出した映画『ハムネット』。
かつて誰かが抱えた言葉にならないほどの悲しみが、400年の時を超えて映画という光の粒となり、私たちの心にそっと降り注ぎます。

日本公開の際は、劇場という静謐な空間で、ぜひその「再生」の瞬間を見届けてください。

2026年に押さえておきたい作品の一つだね!
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