映画『七人の侍』を観終えたとき、私たちの心にはさまざまな顔が浮かんできます。
命を懸けて戦った侍たちの勇姿、生きるために必死な村人たちの葛藤……。
そんな強烈なキャラクターたちに引けを取らないインパクトで、観る者の脳裏に刻まれるのが、離れ家に一人住む、あの「しわしわのおばあさん」ではないでしょうか。
野武士への復讐に燃える村人たちの中で、一人だけ静かに、しかし圧倒的な絶望を湛えて座っている彼女の姿。

確かに、めちゃくちゃ印象的だよね。

今回は、世界中の映画人を驚かせたあの老婆の正体と、名シーン誕生の裏側に隠された奇跡のエピソードをご紹介します。
圧倒的な存在感を放つ「離れ家の老婆」
劇中、息子を野武士に殺され、生きる気力を失った老婆として登場する彼女。その顔に深く刻まれたシワと、虚空を見つめるような瞳は、言葉以上に戦乱の世の残酷さを物語っていました。
実は、彼女のクレジットには個人名がありません。
役名は「離れ家の老婆」。プロの俳優ではなく、制作当時100歳を超えていたと言われる、一般の女性だったのです。

「キクさん」が宿した、消えない焼夷弾の記憶
この老婆を演じたのは、当時、浅草寺の境内で鳩の豆を売っていたというキクさんと呼ばれていた女性だそうです。
彼女がこれほどまでに悲痛な表情を見せた背景には、あまりにも過酷な実体験がありました。
キクさんは東京大空襲の際、B29が投下した猛烈な焼夷弾の炎の中で、息子さん夫婦と離ればなれになってしまったのです。その後、二人の消息はついに分からないまま……。
彼女にとって、劇中で野武士に家を焼かれ、家族を失った設定は、決して遠い世界の作り話ではありませんでした。カメラの前で彼女が流した涙は、演技ではなく、数年前の空襲で大切な家族を失った、癒えることのない現実の悲しみそのものだったのです。

時代を超えてリンクした「戦争の悲劇」
黒澤監督は、彼女がカメラの前で語り出したB29の話や、消えない炎の記憶を遮ることなく静かに受け止め、その本物の悲しみをフィルムに焼き付けました。
- 現場でのキクさん:焼夷弾の炎と、息子夫婦を失った空襲の記憶を泣きながら語る
- 映画の中の老婆:野武士に家を焼かれ、息子夫婦を失った戦国時代の悲劇を語る
400年の時を隔てた二つの戦争が、キクさんという一人の女性の存在を通じて重なった瞬間でした。
しかし、映画は戦国時代が舞台ですから、そのままではB29という言葉を使うわけにはいきません。
また、あまりの悲しみに声が震え、セリフとして成立させるのが難しかったという事情もありました。
魂を揺さぶる「真実の表情」を活かす決断
そこで黒澤監督は、映像にはキクさんの真実の表情を使い、声だけをベテラン女優の三好栄子さんが担当するという、役割分担を行いました。

撮影現場で溢れ出したキクさんの魂の叫びを、プロの技術を持つ三好栄子さんが戦国時代の言葉へと見事に翻訳したのです。
視覚が生む真実味と、聴覚が生む表現力が融合したことで、あのアテレコとは思えないほど観る者の心を揺さぶる名シーンが完成しました。
ちなみに、『雨に唄えば』では、無声映画からトーキー映画に映る中で、声に自信のない演者はアテレコするというのがありましたが、白黒時代の映画は後から声をあてるというのは割とあるものだったそうです。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
『七人の侍』が公開から70年以上経った今も色褪せないのは、こうした細部への徹底したこだわりがあるからでしょう。
名前も知られぬ豆売りの老婆が、なぜ世界の映画史に残る名演を見せることができたのか。その理由は、彼女の顔に刻まれたシワの一つ一つに、私たちが忘れてはならない戦火の記憶が刻まれていたからに他なりません。

次に『七人の侍』を観る時は、ぜひ離れ家のシーンをじっくりみてみてね。

そこには、演技を超えた一人の女性の真実の人生が映し出されています。


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