冒頭、舞台の上に立つ主人公ノーラの背後に流れるのは、ベルリオーズの『幻想交響曲』第5楽章「サバトの夜の夢」。
映画ファンであれば、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』のオープニングを即座に連想する不穏な旋律です。
ヨアキム・トリアー監督がこの引用を用いたのは、これから語られる物語が、家族の再会を描いたありふれた劇ではないことを示すためでしょう。
周知の通り、『シャイニング』は狂気に取り憑かれた父親が、閉ざされた空間で家族を追い詰めていく恐怖を描いた物語です。
本作において、かつて家族を捨て、今また自身の芸術的野心のために娘たちの静かな生活を侵食しに現れる父グスタフの存在は、まさにその「家族を脅かす父権」の象徴として重ねられています。
この旋律は、逃れられない家族の呪縛と、父という存在がもたらす精神的な威圧感を、映画の幕開けとともに鮮烈に予感させているのです。

今回の記事では、アカデミー賞ノミネートの作品の一つである『センチメンタル・バリュー』について解説していきます。

ネタバレを含む内容だから、観てから読んでね。
映画一家のサラブレッド、ヨアキム・トリアーの視点
本作の監督ヨアキム・トリアーは、ノルウェー映画界で三代続く映画家系の出身です。祖父も父も映画に携わる環境で育った彼にとって、「表現すること」と「家族の私生活」が密接に、時には残酷に交錯することは、日常的な風景だったのかもしれません。

劇中に登場する父グスタフもまた、かつて名を馳せた映画監督です。彼は15年ぶりに娘たちの前に現れ、自身が育った実家を舞台に、自分の母親(姉妹の祖母)の死をテーマにした自伝的映画を撮ろうとします。この「自らの痛みを映画に変える」という行為は、表現者の逃れられない宿命であると同時に、監督自身のルーツとも深く共鳴しているように感じられます。

「過去の所有権」を巡る、静かなる衝突
タイトルの「センチメンタル・バリュー」とは、市場価格ではなく、その人にとっての「思い出の価値」を指す言葉です。本作では、この価値観の違いが物語の鋭い軸となっています。
父グスタフが「思い出の実家」を映画の撮影現場へと変貌させ、自らの過去を作品として再定義しようとする一方で、妹のアグネスは図書館で祖母の死にまつわる記録を辿り、父が語る物語の裏にある真実と向き合います。そこにあるのは、記憶の共有という穏やかなものではありません。過去を「芸術」として換金しようとする父と、それを「自分たちのアイデンティティ」として守ろうとする娘たちの、記憶の所有権を巡る切実なぶつかり合いなのです。
世代を超えて連鎖する「死の誘惑」
本作において極めて重要なのは、ヒロインのノーラ自身がかつて自ら命を絶とうとした過去を持っている点です。これにより、物語は一族に流れる「死への誘惑」という暗い伏流を浮き彫りにします。
祖母が戦時中の収容所で味わった極限の絶望、それが息子であるグスタフに影を落とし、さらに孫であるノーラの精神をも蝕んでいたという事実。しかし、ノーラが父の脚本に感じたのは、傷口を抉られるような痛みだけではありませんでした。
自身の希死念慮を知るはずのない父が、脚本の中で「自死」というプロットを書き上げ、それを自分に演じてほしいと熱望する。その偶然を超えた符合に、彼女は何とも言えない超常的なシンパシーを覚えたのではないでしょうか。自分の最も暗い部分が、言葉を交わさずとも父の表現と共鳴してしまったという驚き。それこそが、彼女が出演を承諾し、この危うい「家族の再生」へと足を踏み出す決定的な動機となったのです。

結末:連鎖の先にある「和解」
物語の終盤、撮影の頓挫や父の病を経て、ノーラは父の表現という名のエゴ、そして自分の中に流れる「血の宿命」と向き合わざるを得なくなります。
彼女が最終的に見出すのは、父を完全に許すことでも、過去を忘れることでもありません。自分と同じように「表現」に縋らなければ生きてこれなかった父の孤独を、一人の俳優として、そして同じ傷を持つ者として理解することでした。
過去のひび割れが完全に消えることはなくても、その記憶の価値(バリュー)を自分たちの手で再定義し、共に生きていくことはできる。映画のラストシーンが示唆するのは、一族を縛り続けてきた死の連鎖を、自らの意志で受け入れ、そして一歩先へと踏み出そうとする、静かで力強い覚悟です。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
家族という逃れられない運命を、映画というレンズを通して見つめ直す本作。ヨアキム・トリアー監督が提示した「記憶の価値」の在り方は、私たち自身の過去との向き合い方にも、ささやかな、けれど確かな変化をもたらしてくれるかもしれません。

映画の余韻とともに、皆様が抱く「センチメンタル・バリュー」についても、改めて思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

「わたしは最悪。」でも思ったけど、この監督って女性目線で書くのが巧いよね。
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