大阪の下町を舞台に、元気な女の子・チエと、ろくでなしの父親・テツが繰り広げるドタバタな日常を描いた、はるき悦巳原作の国民的漫画『じゃりン子チエ』。1981年に公開された劇場版アニメは、高畑勲監督の手によって、単なる人情コメディの枠を超えた、胸に深く染み入る切なさをまとった傑作として昇華されました。
本作を観た多くの人が、そのパワフルな笑いに圧倒されると同時に、言いようのない感傷的な気持ちに包まれるのではないでしょうか。それは、登場人物たちが抱える不器用さや、やるせなさ、そして逆境の中でも失われない家族への愛情が、痛いほど伝わってくるからに他なりません。

本記事では、なぜ『じゃりン子チエ』がこれほどまでに私たちの心を揺さぶるのか、その「切なさ」の正体に迫っていきたいと思います。

現在では放送禁止になってる理由も解説するよ!
作品概要:関西演芸界オールスターと高畑勲が紡ぐ奇跡の人情劇
本作の最大の魅力であり、特徴と言えるのが、その驚くべき声優陣です。吉本興業が全面協力し、まさに関西演芸界のオールスターキャストと呼ぶにふさわしい、夢のような布陣が実現しました。

主人公のチエ役には、マルチな才能で活躍する中山千夏。そして、ぐうたらな父親・テツ役には、当時漫才ブームの最前線にいたコンビ「西川のりお・上方よしお」の西川のりお。そして、テツとは犬猿の仲であり、チエの最強の用心棒である猫・小鉄役を、伝説の漫才コンビ「横山やすし・西川きよし」の西川きよしが演じています。
本作のキャスティングの妙はこれに留まりません。テツの永遠のライバルであるヤクザのアントニオと、その息子アントニオJr.の二役を、小鉄役・西川きよしさんの相方である、あの横山やすしが怪演しているのです。つまり、日本中を席巻したコンビ「やす・きよ」が、作中では主人公の父親テツを挟み撃ちにするかのような敵対的な役回りで共演するという、非常に凝った配役になっています。
脇を固めるキャストも豪華絢爛。別居中の母・ヨシ江役には上方言葉の芝居に定評のある名女優・三林京子。チエのおバア役には「唄子・啓助」の京唄子、おジイ役にはその元相方である鳳啓助。チエの担任・花井先生役には桂三枝(現・六代桂文枝)、その父親でテツの天敵でもある花井拳骨役に笑福亭仁鶴と、上方落語界の重鎮が名を連ねます。
さらに、チエの同級生マサルとタカシ役に、一世を風靡した「島田紳助・松本竜介」、テツの博打仲間役に「オール阪神・巨人」、カルメラ兄弟役に「ザ・ぼんち」と、80年代初頭の漫才ブームを牽引したスターたちがコンビで出演。極めつけは、ホルモン屋の客でもあるヒラメちゃんの父親(通称・社長)役に、喜劇王・芦屋雁之助。これだけの個性がぶつかり合えば、物語が面白くならないはずがありません。
この錚々たるメンバーをまとめ上げ、一つの物語として結実させたのが、監督の高畑勲です。『アルプスの少女ハイジ』などで見せた生活描写へのこだわりは本作でも健在で、大阪の下町の喧騒や匂いまでが画面から伝わってくるようです。彼は、原作の笑いを活かしつつ、関西の喜劇人や俳優たちが持つ独特の「間」と「情」を最大限に引き出し、奥行きのある人間ドラマを創り上げたのです。
コンプライアンスの嵐?今、地上波で観られない理由
『じゃりン子チエ』が現代のテレビで放送される機会がめっきり減った背景には、現代のコンプライアンス意識の高まりがあります。今見返すと、作中の描写は多くの点で「アウト」と判断されかねないものばかりです。
まず、主人公のチエは小学生でありながら、学校が終わると家業のホルモン屋を一人で切り盛りしています。これは明らかな児童労働です。さらに、チエが大人に酒を提供するシーンは頻繁に登場し、テツも当たり前のようにチエに酒を持ってこさせます。それどころか、本作ではテツの天敵である花井拳骨がチエに日本酒を勧め、チエがそれをぐいっと一気に飲み干してしまうという衝撃的なシーンまで描かれます。小学生に飲酒させるという描写は、昭和という時代の大らかさ(あるいは無頓着さ)を象徴していますが、現代の感覚では到底許容されるものではありません。
そして何より強烈なのが、父親・テツのキャラクターです。彼は定職に就かず、昼間から酒と博打に明け暮れます。本作において、テツの暴力が妻のヨシ江や娘のチエに直接向かうことはありません。しかし、その暴力性は外の世界で存分に発揮されます。授業参観では担任の花井先生を恫喝し、あろうことかチエの同級生であるマサルを本気で殴り飛ばす。気に入らない相手には誰彼構わず喧嘩を売るその行動は、凶暴そのもの。教育的配慮が重視される現代において、このような暴力的で堕落的な父親像は、受け入れられがたいと判断される可能性が高いでしょう。
これらの描写は、昭和という時代の空気感をリアルに伝えるものでもあります。貧困や格差が今よりもずっと身近で、人々がたくましく、そしてある意味で「野蛮」に生きていた時代。その中で懸命に生きるチエの姿が描かれるからこそ、物語に深みが生まれるのです。コンプライアンスという物差しだけでは測れない、作品の持つエネルギーとリアリティがそこにはあります。

また、大阪の新世界や西成の雰囲気を強く感じさせる側面もありますね
。
胸を締め付ける「切なさ」の正体
本作のジャンルはコメディですが、その根底には常にどうしようもない「切なさ」が流れています。その源泉は、登場人物たちが抱える不器用さと、それでも失われない愛情にあります。
気丈な少女の、ふとした瞬間の弱さ
主人公のチエは、大人顔負けのしっかり者です。酔っぱらいの相手をし、店の経営をこなし、ぐうたらな父親の面倒まで見る。その姿はあまりにも気丈で、たくましい。しかし、彼女もまだ小学生の女の子です。母親が帰ってきてから、鏡を見ながら髪をとかすシーンがあります。それは、日中の働き者の顔とは違う、年頃の少女の顔です。この何気ない描写に、私たちはチエの健気さと、その裏にある寂しさを感じずにはいられません。
この切なさが最も象徴的に現れるのが、チエの見る夢のシーンです。夢の中で、チエの家の蛇口は壊れ、水が溢れ出し、家が沈んでいきます。それは、いつ壊れてもおかしくない、危ういバランスで成り立っている自分の家庭環境そのもののメタファーです。
「夢を見た。うちの蛇口、壊れてた」 「……ウチでも、直せるやろか」
この夢の中のセリフは、涙なくしては聞けません。壊れた蛇口を「自分の力で直したい」と願うチエの言葉は、バラバラになった父と母の関係を「自分の力で元通りにしたい」という、幼い少女の悲痛な叫びなのです。このどうしようもない現実と、それでも何かを信じようとする純粋な願いの間に横たわる深い溝が、観る者の胸を強く締め付けます。
不器用な人々の、もどかしい愛情表現
切なさを生み出しているのは、チエだけではありません。テツも、ヨシ江も、そして周りの人々もまた、不器用な優しさと愛情を持っています。
テツは、暴力的で自己中心的な最低の父親ですが、心の奥底ではチエを深く愛しています。しかし、それを素直に表現することができません。マラソン大会の靴、参観での恫喝。彼の愛情は、常に暴力や虚勢といった歪んだ形でしか表現されないのです。
母・ヨシ江もまた、不器用な愛情の持ち主です。彼女はテツに耐えかねて家を出ていますが、決してテツを見捨てたわけではありません。テツが大怪我を負ったと聞けば、ためらわずに駆けつけ、かいがいしく看病します。彼女の中には、テツへの愛情と憎しみが、そして娘への想いが複雑に絡み合い、どうすることもできないもどかしさが渦巻いています。

母・ヨシ江が家を出て、テツの元に戻る理由
ヨシ江はテツの元に戻ることを提案します。しかし、チエは「まだ会わんほうがええ」と、それを引き留めます。一見すると、これはヨシ江の意思を尊重していないように見えます。しかし、ここには深い洞察が隠されています。
チエは、今のテツがヨシ江の優しさに甘え、より堕落した生活に戻ってしまうことを見抜いています。そして、チエもまた、母が戻ってくることで、父がまた甘えてしまい、今の生活が崩れてしまうことを恐れているのかもしれません。
チエとおばあの「今はまだその時ではない」という冷静な判断、もっと言えば「策略」があったのではないでしょうか。彼女たちは、テツが本当の意味で変わるためには、ヨシ江という「逃げ場所」があってはならないと考えている。そして、ヨシ江自身も、そのことを心のどこかで理解している。だからこそ、彼女はテツの元に完全には戻らず、付かず離れずの距離を保ち続けるのです。
これは、一種の「共依存」からの脱却プロセスとも言えます。ヨシ江はテツを支えることで自己の存在価値を見出し、テツはヨシ江に甘えることで現実から逃避する。この負の連鎖を断ち切るために、チエとおばあは、あえて「引き離す」という選択をした。それは、家族が本当の意味で再生するための、あまりにも切なく、そして賢明な判断だったのです。
劇中劇『ゴジラの息子』に込められたメッセージ
物語の中盤、チエとテツが映画館で映画を観るシーンがあります。スクリーンに映し出されるのは、1967年公開の東宝特撮映画『ゴジラの息子』。この劇中劇は、決して単なる時代背景の描写ではありません。高畑監督は、この映画を意図的に挿入することで、『じゃりン子チエ』のテーマをより深く掘り下げています。
『ゴジラの息子』は、怪獣王ゴジラが、不格好で弱虫な息子・ミニラに、厳しいながらも愛情を持って戦い方を教え、一人前の怪獣に育て上げようとする物語です。ゴジラは乱暴で、放射能火炎の吐き方もろくに教えられませんが、それでも息子のために必死に戦います。一方のミニラは、泣き虫で甘えん坊ですが、父の姿を見て健気に成長しようとします。
この「ダメな父親と、健気な息子」という構図は、そのまま「テツとチエ」の関係に重なります。ゴジラのように暴力的で、父親らしいことが何一つできないテツ。そして、ミニラのように、そんなダメな父親の背中を見て育ち、一人で懸命に生きようとするチエ。映画館の暗闇でスクリーンを見つめるチエの横顔は、ミニラの姿に自分を重ね合わせ、父親への複雑な想いを巡らせているかのようです。この巧みな引用によって、高畑監督は、テツとチエの親子関係が、種族を超えた普遍的なものであることを示唆しているのです。
物語の舞台となった場所
本作のリアリティを支えているのが、大阪の具体的な地名や風景です。
- チエの店と西荻商店街: 原作の舞台は大阪市西成区の「西萩」地区です。映画でもこの界隈の風景がモデルとなっており、ホルモン屋「チエちゃん」が店を構えるアーケード商店街は、当時の下町の雰囲気を色濃く残しています。
- お祭り(四天王寺): 劇中でチエたちが訪れる夏祭りのシーンは、大阪市天王寺区にある和宗総本山「四天王寺」がモデルとされています。境内の賑わいや夜店の様子がリアルに描かれています。
- 遊園地: 遊園地は、かつて大阪府枚方市にあった「ひらかたパーク」がモデルと言われています。
- 映画館: 『ゴジラの息子』が上映されていた映画館は、特定のモデルは明言されていませんが、当時の大阪に数多く存在した、いわゆる「二番館」「三番館」の雰囲気をよく再現しています。
- 善哉屋、カラオケ喫茶: これらの店も特定のモデルを挙げるのは困難ですが、当時の大阪の下町にはどこにでもあったような、人々の生活に密着した場所として描かれ、物語に生活感を与えています。
これらの実在の、あるいは実在したであろう場所を舞台にすることで、『じゃりン子チエ』の物語は、単なるアニメーションではなく、昭和50年代の大阪という街の記録としても価値を持つ作品となっているのです。
マラソン大会優勝シーンの多幸感と、その裏にあるもの
物語のクライマックス、チエは学校のマラソン大会で劇的な優勝を飾ります。このシーンの演出は非常に印象的です。ゴールテープを切る瞬間、チエの視点から見た空、応援する同級生たちの顔、そして喜びを爆発させるチエの表情が、目まぐるしくカットバックされます。
この矢継ぎ早のカット割りは、チエが感じている爆発的な喜び、そしてこれまでの人生で味わったことのないほどの高揚感を表現するためのものでしょう。普段、大人びていて感情をあまり表に出さないチエが、年相応の子供として、純粋な達成感に浸っている。その姿は、観ているこちらも嬉しくなってしまうほどの多幸感に満ちています。
しかし、この喜びが大きければ大きいほど、その後の現実とのギャップが際立ち、切なさを増幅させます。優勝という輝かしい栄光も、家に帰れば、ぐうたらな父親と、決して楽ではない日常が待っている。この一瞬の輝きは、チエが生きる過酷な現実を、より一層浮き彫りにする効果も持っているのです。
緞帳が下りるラストシーンの意味
映画のラストは、ホルモン屋の店先で、舞台の緞帳(どんちょう)が下りてきて幕を閉じるという、非常にユニークなものです。
これは、まるで吉本新喜劇や人情芝居の終幕のようです。この演出には、いくつかの意味が込められていると考えられます。一つは、この物語が「大阪の人情喜劇」であることを改めて宣言するものです。どんなに切ない現実があっても、最後は笑い飛ばして明日へ向かう。そんな関西的な精神性を象徴しています。
もう一つは、この物語が「フィクション」であることを示すことで、観客に一種の救いを与えているのかもしれません。あまりにも過酷で、切ないチエの日常。しかし、緞帳が下りることで、観客は「これはお芝居なのだ」と少しだけ距離を置くことができます。そして同時に、「私たちの周りにも、こんな風にたくましく生きている人たちがいるのかもしれない」と、現実世界に思いを馳せるきっかけにもなるのです。この終わり方は、笑いと涙に満ちた『じゃりン子チエ』という物語を締めくくるのに、最もふさわしい幕引きと言えるでしょう。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
映画『じゃりン子チエ』は、パワフルな笑いの下に、どうしようもない切なさと、不器用ながらも確かな愛情を内包した、類稀なる傑作です。気丈に振る舞いながらも、ふとした瞬間に少女の脆さを見せるチエ。暴力的で最低な父親でありながら、その奥に娘への愛を隠すテツ。そして、彼らを取り巻く不器用で、おせっかいで、温かい人々。
彼らが織りなす物語は、現代の価値観から見れば「問題だらけ」かもしれません。

確かにそうだね…。

しかし、その不完全さや、ままならなさこそが、人間の本質であり、私たちがこの作品に強く惹きつけられる理由なのではないでしょうか。笑って、泣いて、そして観終わった後には、胸の奥に温かくも切ない何かが残る。それこそが、高畑勲監督が描いた『じゃりン子チエ』の真髄であり、時代を超えて愛され続ける所以なのです。
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