先日、私にとって大切な映画の一つである、『ニュー・シネマ・パラダイス』を鑑賞しました。
もう何度目の鑑賞でしょう。30回以上観たのではないかと思います。
もちろん、何度観ても感動するんですが、細かな部分で気になったことや分かったことというのが、鑑賞の度に増えるんですよね。
それだけ、よく考えて作られた映画なのでしょう。
今回の記事では、『ニュー・シネマ・パラダイス』を観て気になったことや分かったことについて解説していこうと思います。

特に今回の鑑賞では、アルフレードの言葉や思いにフォーカスしてお伝えしていきます。

当時の社会状況や、宗教についても目を向けてみたから、はじめはそのあたりについて解説するよ!
はじめに
『ニュー・シネマ・パラダイス』の時代背景は、第二次世界大戦後のイタリア、シチリア島です。
映画館「パラダイス」を舞台に、映写技師のアルフレードと少年トトの絆を描いています。
具体的には1945年以降から、1950年代後半くらいまでがトトの少年、青年期、つまり回想のシーンですね。
この映画は、ジュゼッペ・トルナトーレ監督が自身の経験や、故郷の人々から話を聞いて作った物語なんです。
監督自身の自伝的なストーリーもあれば、村の誰かの思い出の一部が映画になってもいる。
そういった郷愁と愛が詰まった映画なんですね。

当時のシチリアにおけるカトリック教会の強さと変容過程
パラダイス座は、村で唯一の娯楽施設でした。
しかしながら、その運営はカトリック教会が行っているため、教えに反するような過激なシーンは事前に検閲されてカットされていたんですね。
そしてこういった状況が、もう20年は続いているということが、村人のセリフによって分かります。
しかし、火事によって全焼すると、その運営は教会のもとから離れ、ニュー・シネマ・パラダイス座としてリニューアル。
キスシーンやお色気シーンも観られるようになって、村人たちは喜ぶのでした。
このあたりに、終戦後のカトリック教会の力の弱まり、人々の信仰心の弱まりを感じずにはいられません。

娯楽が信仰を上回ってしまった。そんなことを示唆しているのでしょうね。
そしてもう一つそのあたりを汲み取る上で見逃せないのが、トトがこっそりと映写室へ入り込むシーン。
少年時代のトトは、映写室へ入る前に十字を切るんですよ。
それだけ彼にとって、映画を映し出す映写室というのが神聖な場所であったことを物語っているのではないでしょうか。
神のように信じるに値する存在、それが映画の世界だったと。

アルフレードの映画愛
アルフレードは、トトとの会話の中で、映画のセリフを引用したり、トトの父親のことを俳優に例えたりするほど、映画の世界へ浸かっていたことが分かります。
ある日、超人気作を上映する際、観客が入れないほどパラダイス座は賑わい、その対処として彼は野外の壁に映画を映すという何とも粋な手段をとるんですね。

その際トトに対して言うセリフというのが、
「言葉ではなく目で見るものを信じよ」という映画のワンフレーズなんです。
そしてこの直後にフィルムに火が付き、彼は失明してしまいます。
この人がどれだけ映画と共にあり、愛してきたか。たくさんの映画を、目で観て楽しんできたアルフレード。
それを少しでも多くの人に届けようとした結果なのに。
残酷であればあるほど、素晴らしくよくできた流れだなと感じました。
映写技師にはなるな
アルフレードは一貫して、トトに対し「映写技師にはなるな」と伝え続けました。
その理由として、
「映写技師は孤独な肉体労働だからだ」と言うんですね。
アルフレードは、10歳の頃から映写技師として働いていました。
その結果、彼は小学校も卒業できず、ブルーワーカーとして何十年も働き続けることになったのです。そして老いた。
彼が複数の男性と共に、トトの通う小学校へ小学校卒業認定試験を受けにやってくるシーンがあります。

一見コミカルに描かれるあのシーンですが、何とも恥ずかしそうに、情けない様子。なかなか切ないものがあるシーンなのです。
自分のような情けない思いをしてほしくない。トトにはキチンと学を身に着けて、ブルーワーカーではなくホワイトワーカーやもっと素晴らしい職についてほしい。
そういった思いを繰り返し伝えるシーンというのが、この映画にはあるんですね。
この村に帰ってくるな
さらにアルフレードは、村を出ていくことをトトに何度も勧めます。
「この村にいると、みんなあたたかく迎えてくれる。自分が世界の中心であるかのように思ってしまう」
そんな風に伝えるんです。
視力を失ったアルフレードの代わりに、トトはニュー・シネマ・パラダイス座の映写技師として、子どもながらに働くことになります。かつてのアルフレードのように。
ちょうどトトの父親の死亡も分かったタイミングだったこともあり、収入のないサルヴァトーレ家としても有難い話だったので、受けいれることになったのでしょう。
そういった背景もあってか、アルフレードもしばらくはトトが映写技師をすることを快く思っているように見えます。
しかし、やはり心の底では映写技師を続けてほしくない、ここを出ていくべきだと伝えたいという思いが溢れ出ているんですね。
学校へ通うことは続けるべきだと示唆するシーンもありました。
映写技師の仕事が今は上手くいっているかもしれないが、一時の感情に支配されてはならないと心底では思っているんです。
中でも私がそれを強く感じたのは「兵士と王女のおとぎ話」です。
トトは、エレナという女の子に恋をします。
そんなとき、アルフレードがトトに伝えたのがこの「兵士と王女のおとぎ話」でした。

ある兵士が王女に恋をし、王女は兵士に「私のバルコニーの下で100日と100夜待つことができるなら、それが終わったら、私はあなたのものになります。」
と伝えるんですね。
兵士は雨の日も風の日も待ち続け、身も心もボロボロになったにも関わらず、99日目にその場を去ってしまいます。
この理由というのは語られません。アルフレードはトトに「分かったら教えてくれ」とだけ言い残します。
私はこれについてこう解釈しました。
兵士は、耐え続ける中で、王女の傲慢さや意地の悪さを感じ、あえて約束の前日に、自らその場をさることで王女へ意趣返ししたのではないでしょうか。あるいは王女の愛を試すためにあえてそうしたか。
つまり、アルフレードは、この話を通してエレナのような高嶺の花を追い続けるべきではない。そう言いたかったのではないかと。
恋愛感情という一時の感情に支配されて、この村から離れられない理由を作ってはいけない。
恋のような甘い誘惑に負けず、なにかに一心に打ち込み、大成してほしい。
そんな願いをこめていたのではないかと思うんですね。
これが、徴兵後の「帰ってくるな」というセリフにも繋がっているのではないかと。
結果として、トトは特定のパートナーを持つことは中年期になってもありませんでしたが、映画人として大成する。
指示を出し、自分の手ではなく、人にフィルムを流させるような一角の人物になることができた。
自分の葬式を知らせることも禁じたアルフレードの態度。すべてトトに対する愛ゆえだったんですね。
どれだけ会ってなくても、突き放していても愛していた。
そのことを少しでも伝えたい。君のことを、君と交わした約束を忘れていない。ずっと大事に思っていた。一時も忘れたことはない。それがあの「愛のフィルム」だったというわけです。
今日の映学
最後までお読みいただきありがとうございます。
『ニュー・シネマ・パラダイス』について、新たに感じたことや気づいたことをお伝えさせていただきました。

アルフレードがどれだけトトを想っていたか。痛感しました。

働き方とか、生き方、人生のターニングポイントについて考えさせられる映画でもあるんだね。
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